出雲ローカルサーファー

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2017年8月27日日曜日

明晴学園のろう教育シンポジウムに参加

聾者の幼児期における言語獲得において、手話を母語(第一言語)とし、書記日本語を第二言語にする事の重要性を理解できた。
御茶の水大学名誉教授の内田伸子先生の調査研究によると、カミンズの二言語共有説にもとづけば、第一言語が習得されていれば、深層部でメタ言語能力が共有され、第二言語も習得し易いということだ。
つまり、聾者にとっても、難聴者にとっても幼児期が大切なポイントになるということが理解できた。

特に幼児、児童で難聴があると聞き取ることに集中し、日本語習得に支障が出ると思われるので、第一言語に手話を選択することが良い結果を生むと考えられた。


2017年8月24日木曜日

出雲市手話の普及の推進に関する条例が提案される

出雲市議会の9月議会で「出雲市手話の普及の推進に関する条例(案)」が提案されると、担当課から連絡があった!
長年取り組んできたテーマだったので、感慨深いものがあります!

  

2017年8月6日日曜日

出雲市の平和記念式典に今年も参加

72回目の追悼式、台風の影響で異常に暑い日となった。
広島も長崎もこんな暑い日に惨劇が起きたはずだ。
私は中学生の時に長崎に修学旅行に行ったが、被爆者の体験談を聞いた記憶が無い。
平和祈念公園には行った記憶があるが、語り部の記憶が無いのである、これは私だけなのかもしれない。

今年はその長崎の語り部 八木 道子さんが来雲され体験談をお話しされた。
6歳の時に被爆、爆心地から3キロ離れた所にお住まいだった。
9日の朝空襲警報が鳴って避難、二時間後に解除のボーというサイレンが鳴り、家の二階に兄妹5人で上がってみると、爆音が聞こえてきた、飛行機が飛んで来たのを見て、頑張れーと叫んでいる時(敵機だと思わないのだ)、ピカッと光、次の瞬間ドーンというすごい爆発音に驚いて、階下の縁の下に潜り込んだというのだ。

それからは、いつも見送っていた少年兵の焼けただれた姿や、無残に積みあがった黒焦げの死体、そして焼くしか方法がない引き取り手のない遺体など、無邪気な6歳の女の子が見るにはあまりに残酷な地獄絵図が展開されていったそうだ。

皆で非難した防空壕の中は、真っ暗で腐臭が漂う死の世界。
真っ黒な大きいハエが傷口に卵産みつけ、ウジ虫が傷口を食い破る、はらってもはらっても容赦のない攻撃は続く。
ピンセットもない(全部弾を作るために供出されていた)から、木の棒でつまんで一匹ずつ取り除いたそうだ。
とても忘れられないだろう。

戦争が終わっても。今度は食べるものがない。
修学旅行に行けるのは、コメを持って行ける子だけだったそうだ。
コメを持って行ける子だけ参加ができる修学旅行とは、現代では考えられないことだがそれが普通に行われる時代だったのだ。

戦争がもたらす理不尽なもの全てが出尽くした太平洋戦争、そして人類に対して絶対に使ってはならない核兵器が使われてしまった不幸な太平洋戦争は、今でも多くの人を苦しめていることを再認識させられたのである。

2017年8月4日金曜日

対馬によせて

昨夜、友人たちに対馬の話をすると、「韓国に占領されるぞ!」などと過激な反応であった。。。
一部の報道や週刊誌ネタで判断しての発言だと思うが、いただけない反応だと思った。

情報が氾濫している現代、真偽を見極める目を耳を持たねばならない、それにはやはり現場を現地を見て、その土地の人の話を聞くことが肝要だとつくづく思うのである。

がしかし、これはこれで難しいことで誰もが行けるわけではない、そうするといかに我々政治家の役目が重いものか、改めて気づかされるのである。


2017年8月3日木曜日

韓国が目の前に 対馬で国境を感じる

対馬の最北端に行くと韓国展望所にたどり着く、50キロ先にある釜山の町が展望できるのです。
夏場は水蒸気の関係で見えないということであった、それでも良く晴れていたので淡い期待があったが、やはり見ることはできなかった。
比田勝町の人によると、花火も楽しむことができる時もあるそうだ、まさに国境離島であることを実感する話であった。

この展望所の目の前には、航空自衛隊第19警戒隊(防空レーダー部隊)がある小島が見える。
25キロ先が国境線であるから常に緊張した状況に置かれているだろうと推察された。


この近さゆえに、韓国からのツアー客が次々に押し寄せている。
年間25万人から40万人にまで膨れ上がるのではないかと聞かされた。
私たちが泊まった厳原町の東横インの前に、レッドキャベツというスーパーがあった。
そこに足を踏み入れるとお客さんの90%は、韓国の人であった。
カートを買い物でいっぱいにした人がレジに大勢並んでいるのだ、こんにゃくゼリーやカレールーなどは買い占められて品薄状態であった。