出雲ローカルサーファー

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2017年8月6日日曜日

出雲市の平和記念式典に今年も参加

72回目の追悼式、台風の影響で異常に暑い日となった。
広島も長崎もこんな暑い日に惨劇が起きたはずだ。
私は中学生の時に長崎に修学旅行に行ったが、被爆者の体験談を聞いた記憶が無い。
平和祈念公園には行った記憶があるが、語り部の記憶が無いのである、これは私だけなのかもしれない。

今年はその長崎の語り部 八木 道子さんが来雲され体験談をお話しされた。
6歳の時に被爆、爆心地から3キロ離れた所にお住まいだった。
9日の朝空襲警報が鳴って避難、二時間後に解除のボーというサイレンが鳴り、家の二階に兄妹5人で上がってみると、爆音が聞こえてきた、飛行機が飛んで来たのを見て、頑張れーと叫んでいる時(敵機だと思わないのだ)、ピカッと光、次の瞬間ドーンというすごい爆発音に驚いて、階下の縁の下に潜り込んだというのだ。

それからは、いつも見送っていた少年兵の焼けただれた姿や、無残に積みあがった黒焦げの死体、そして焼くしか方法がない引き取り手のない遺体など、無邪気な6歳の女の子が見るにはあまりに残酷な地獄絵図が展開されていったそうだ。

皆で非難した防空壕の中は、真っ暗で腐臭が漂う死の世界。
真っ黒な大きいハエが傷口に卵産みつけ、ウジ虫が傷口を食い破る、はらってもはらっても容赦のない攻撃は続く。
ピンセットもない(全部弾を作るために供出されていた)から、木の棒でつまんで一匹ずつ取り除いたそうだ。
とても忘れられないだろう。

戦争が終わっても。今度は食べるものがない。
修学旅行に行けるのは、コメを持って行ける子だけだったそうだ。
コメを持って行ける子だけ参加ができる修学旅行とは、現代では考えられないことだがそれが普通に行われる時代だったのだ。

戦争がもたらす理不尽なもの全てが出尽くした太平洋戦争、そして人類に対して絶対に使ってはならない核兵器が使われてしまった不幸な太平洋戦争は、今でも多くの人を苦しめていることを再認識させられたのである。

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